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À partir du 21 juin 2017, nouvelle présentation du mobilier chinois au sein de l’hôtel d’Heidelbach

À partir du 21 juin 2017 La réouverture de l’hôtel d’Heidelbach ne pouvait s’envisager sans une présentation très complète jamais imaginée pour cette typologie d’œuvre : le mobilier chinois. Du fait des espaces non adaptés dans le bâtiment principal, place Iéna, le mobilier chinois trop dispersé et peu valorisé trouve désormais une architecture magistrale faisant […]

Carte blanche à Jayashree Chakravarty

Du 18 octobre 2017 au 15 janvier 2018 Pour cette cinquième carte blanche contemporaine dans la rotonde du 4e étage, le MNAAG a confié à l’artiste indienne Jayashree Chakravarty la création d’une installation végétale, occasion inédite de présenter une œuvre vivante, organique. C’est sous cette forme que l’artiste questionne la fragilité et la vulnérabilité du […]

Images birmanes, trésors photographiques du MNAAG

Du 18 octobre 2017 au 22 janvier 2018 Pour ce troisième rendez-vous avec la photographie ancienne, le MNAAG dévoilera une centaine d’œuvres photographiques, images exceptionnelles de la Birmanie de la deuxième moitié du 19e siècle et rare corpus jamais exposé auparavant. La sélection a été réalisée à partir de l’ensemble du fonds birman acquis par […]

Suzaku

Dans le cadre du cycle « La nature selon Naomi Kawase » Du 5 au 14 juillet 2017 Désormais autant reconnue pour ses fictions que pour ses documentaires qui ont remporté de nombreux prix, Naomi Kawase, née en 1969, accorde une large place au monde rural dans ses œuvres. Des montagnes boisées à la langueur marine, le […]

Soutenir le musée

Entreprises et fondations Développez votre activité en soutenant le musée national des arts asiatiques – Guimet. Lire la suite… Projets à soutenir Contribuez à l’enrichissement de l’offre culturelle et pédagogique en soutenant nos projets. Lire la suite…  Remerciements Le musée national des arts asiatiques – Guimet remercie ses généreux donateurs. Lire la suite… Cosmogramme, Chine, […]

Le jardin de l’hôtel d’Heidelbach

Après plusieurs mois de travaux, le jardin de l’hôtel d’Heidelbach ouvre de nouveau ses portes aux visiteurs du Musée national des arts asiatiques – Guimet. Ce nouveau paysage, création de l’architecte franco-japonaise Agnès Latour-Kurashige, associée à l’historien d’art Jean-Sébastien Cluzel permet désormais d’accueillir plus généreusement le  public pour différents évènements culturels, de protéger et de […]

La bibliothèque historique

Au cœur du musée national des arts asiatiques – Guimet, les murs ronds de la bibliothèque historique ont vu s’y dérouler des scènes étonnantes, où se mêlent moines bouddhistes et une célèbre espionne dansant… La rotonde de la bibliothèque, conçue comme le cœur du bâtiment dès l’ouverture du musée en 1889, est classée au titre […]

Interview d’Hélène Bayou à propos de l’exposition Konpira-San

Hélène Bayou, conservateur en chef du patrimoine, en charge de la section Japon au musée Guimet est l’une des commissaires de l’exposition Konpira-San, Sanctuaire de la mer – Trésors de la peinture japonaise qui a eu lieu au musée Guimet du 15 octobre au 8 décembre 2008. Elle nous parle de cette exposition. MODE D’EMPLOI : […]

Au jardin de Krishna Riboud

Accrochage photos de Marc Riboud en hommage à Krishna Riboud.

OUVERTURE EXCEPTIONNELLE ! Trois Nocturnes les 22, 27 et 29 décembre.
Dernier accès à l’exposition à 21h , fermeture à 21h30.

용문항아리

구름을 타고 하늘을 나는 용 장식은 중국 회화의 단골 주제인데 한국에서도 문인들과 화공들의 작품에서 매우 자주 등장한다. 이런 형태의 용문양이 17세기에 자주 사용된 데에는 한반도에 특수한 회화 사정이 있었음을 알려주며, 이는 아마도 당시에 도자기의 수요가 점차 다변화되던 추세에서 비롯되지 않았나 싶다. 도공들이 문인화에서 영감을 받게 되면서 자연주의풍의 이 양식이 철저하게 형식을 추구했던 화풍과 결합함에 따라 […]

나무로 제작되어 옅은 베이지색 천을 씌운 이 탈은 여러 색으로 칠해진 오래된 층이 묘한 뉘앙스를 풍기고 있으며, 여기에 분명히 나중에 덧칠한 것으로 보이는 2개의 층이 새로 발견되었다 (다른 7점과 마찬가지로 바라 탐사대가 가져와 기메 박물관에 보관). 작품은 달걀 모양으로 갸름한 여성의 얼굴을 떠오르게 하는데 극도로 창백한 모습이 뚜렷한 눈썹 그림과 머리칼의 검정색과 대비를 이룬다. 눈 […]

조만영의 초상화, 고위관리

이 초상화는 자연주의와 심리 사실주의를 교묘하게 결합하고 있는 표현이 절제된 걸작품이다. 그림의 인물은 전체적으로 추상적인 분위기의 배경 위에 4:3 비율로 묘사되어 있다. 강렬한 눈빛과 엄숙함, 경륜과 연륜이 묻어 나오는 근엄한 얼굴에서 인물의 강한 이미지가 더욱 강조된다. 부각과 채색된 음영이 정확하게 표현되어 있어 사진의 정밀 사진을 보는 듯한 착각을 일으킨다. 조선시대 말기의 전통 의상을 착용하고 있다 […]

십폭병풍 : 화조화

이한철(1812 1902)이 사용한 ‘꽃과 새’의 주제, 즉 화조도는 세부 묘사가 매우 치밀하여 화가의 뛰어난 관찰력과 사실 감각을 보여줍니다. 주제 묘사가 매우 섬세하고 민첩하며 그렇다고 정교함에서 빠지는 구석이 있는 것도 아닙니다. 화가는 중국 명나라(1368 1644)로부터 유래된 기법을 재현하며 군청색 바탕과 은색 선을 이용한 그림을 대비시킵니다. 작품에서 표현된 주제 중에서도 특히 오리와 봉황은 같은 시기에 일부에서 ‘민화’라고 부르는 양식이 […]

여덟폭병풍 : 풍속화

비단에 채색한 이 병풍은 김홍도(1745 1815 ?)의 작품이다. 화가는 조선시대 귀족사회의 일상생활상을 계절별로 섬세하게 묘사하고 있다. 예를 들어 8폭 가운데 일부에서 가마에 타고 있는 선비, 그림 안쪽에서 오가는 행인들, 지나가며 부채로 얼굴을 가리는 남자, 담 넘어 엿보는 사람, 각자 생업에 종사하는 남녀들을 발견할 수 있는데, 중국 궁신들의 오만한 걸음걸이도 에도 시대(18세기) 일본 대신들의 복잡한 의상 같은 […]

매병, 유약 도자기

이 큰 자기의 ‘매병’이라는 이름은 유명한 한자어 ‘메이핑’(meiping, 梅甁)의 한국어 전사이다. 같은 종류의 창작품이 이미 중국 북송시대(960 1127)에 크게 성했으나 세계적으로도 명성이 자자한 고려 도공들의 진정한 장기로 여겨진다. 작품은 섬세하게 새겨진 꽃장식 위에 청록색이 감도는 도자기 유약이 입혀져 있다. 하반신의 연꽃 무늬 밑둥은 작품의 우아한 형태와 절묘하게 부합한다. 균형이 완벽하고 전체적인 모습에서 조화를 이룬 이 매병은 […]

목조여래좌상, 강론 모습

이 ‘여래좌상’은 절제된 소박함과 사유의 내면세계를 무척이나 우아하게 그리고 있으며 부처의 얼굴을 표현한 가장 아름다운 작품 가운데 하나로서 고려(918 1392) 초의 미학을 보여준다. 통일신라(668 918)를 지배하던 강직과 엄숙이라는 아이콘에서 벗어나 제조기법이 훨씬 부드럽고 유연해졌음을 알 수 있으며 동시에 인간의 실재와 인간성에 대한 현실적인 고민을 느낄 수 있다. 철에 금박을 입힌 불상의 모습과 실물을 모방하면서도 목재 특유의 다루기 […]

아발로키테스바라, 천수관음보살

이 인상적인 철조 작품은 그 위에 금박을 씌운 원형을 그대로 간직하고 있으며 ’천 개의 손과 천 개의 자안을 가진 아발로키테스바라’, 즉 천수관음보살의 모습을 형상화하고 있다. 동양 특유의 반가부좌로 앉아 43개의 손이 각기 다른 지물을 들고 있는 조상은 머리 위로 작은 아미타불을 받든 채 허리를 약간 구부리고 있는 듯한 자세를 취하고 있다. 천수관음보살은 그 보다 훨씬 […]

반가사유보살상

동으로 주조하여 도금한 6세기 말의 이 보살상은 삼국시대(1 7세기) 백제 조상들의 걸작품으로서 한국이 대륙에서 유입되는 영향을 수용하면서 동시에 이를 독자적인 양식으로 발전시켰음을 보여준다. 청춘의 매력을 느끼게 하는 젊은 얼굴에 무척이나 신선하고 상냥한 미소(그 유명한 백제의 미소)를 지어 보이는 이 금동보살상은 인접한 왕국 신라(기원전 57 서기 668)에서 볼 수 있는 조각 초상의 엄숙함과 구별된다. 몸체는 연약하고 상체에는 아무 […]

신라 왕관

시베리아 초원지대에서 유래된 전통을 계승한 기법에 따라 망치로 두들겨 얇게 편 후 금박을 입힌 철 조각을 붙이는 방식으로 제작된 이 왕관은 삼지창 모양을 한 5개의 사슴뿔 장식을 위에 얹은 둥근 띠로 구성된다. 상징에 따라 잘라낸 이 가지들은 나뭇가지를 연상케 하며, 산의 형태나 심지어 새의 깃털을 연상케 하는 것으로도 보인다. 왕관의 귀 위치에는 땋아늘인 머리와 흡사한 […]

伎楽面

この伝統演劇「伎楽」の面は、インド神話に登場する霊鳥カルラ(迦楼羅)を表している。カルラは仏教の八部衆の一として日本の仏教図像に取り入れられた。この鳥の顔は赤い羽をまわりに付け、玉をくわえた鉤型のくちばしで獰猛さが強調されている。今は紛失してしまっているがとさかも付いていた。伎楽面はその様式的、図像学的要素を見ると、中国の影響のみでなく、中央アジア、さらにはギリシャからの影響も考えられる。  桐の木材を彫刻したこの仮面は役者の顔を被うものである。表面に残る赤や緑の色素は、元来鮮やかな色が賦彩されていたこと、それが空想的な側面を誇張するためであったことを示すものである。仮面の表面は、まず薄い白土の膜で覆い、さらに漆を塗ったうえでさまざまな彩色が施されていた。  伎楽面は、8世紀の日本において絶頂期を迎えた伎楽という演劇の唯一の遺品である。伎楽の上演内容は、仮面を付けたパントマイムと舞、音楽であり、その内容は世俗的なものであったが、有力な仏教寺院の儀式と関連の深い ものであった。まさにこの面も、752年に東大寺で行われた大仏開眼供養で使用されたものである。(内側に関連の銘あり)  この伎楽面には、当時の中国、インド、南アジアの僧からもたらされた外国の仏教の影響が強くみられる。その僧たちが来日した際に、シルクロードのさまざまな文化をとりいれた芸能を伝える演者たちを従えて来たのである。この時期、日本は大陸の文化を取り入れようとする知的、かつ政治的な努力をしていた時期にあたる。なかでも仏教はその最も代表的な機構であり、最も勢力のあった思想であった。

遮光器土偶

 横に割れた大きな目に特色があるこの小立像は遮光器土偶と呼ばれる。これは、北方民族のイヌイットが雪中の光よけに着用していた器具によく似ているためである。別説によれば、これは瞼(まぶた)を閉じたものであり、死後の世界にいることを意味するともいわれる。頭の上に冠を頂いたような髪型、鼻は眉毛のない2つの目の中間に開けられた1つの穴である。レリーフ状になった2本の帯が首飾りとして首のまわりに輪を描いている。上半身は調和のとれた曲線が、幅広の腰幅と肩幅を描いたのち、2本の腕に伸びている。そしてその表面には、点の連なった1本のロープのような曲がりくねった模様が描かれている。このタイプの土偶は女性像に限定されており、さらには体の大きさに比較して小さく作られた手足に特徴がある。このような土偶は一般的に縄文晩期のものである。日本北部、とくに東北や関東地方で発見されている。  土偶は低い温度(800℃)で焼かれた素焼きで中は空洞になっている。  土偶の祭祀における用途はまだはっきりしていない。一般的に土偶は村の周辺に作られたお墓から発見されており、なかには故意に割られたり、まき散らされたりしているものがある。おそらく厄よけの意味があったのではないかと想像される。女性的な形には多産を祈る意味もあるようである。また土偶は現世と非現実の世界を結ぶシャーマン的な役割をするとして使われていた。次の時代にあたる弥生時代(紀元前300年-300年)以降、この種の小立像は存在しなくなる。土偶は、縄目が入った土器とともに、縄文時代の最も典型的な芸術の1つとなっている。

硯箱(すずりばこ)

蓋に描かれているのは庭と東屋である。東屋では薫源氏が自分の硯箱の横に座って瞑想をしている。その向かいにはたそがれ時の山の景色が、大和絵に特有の風景として、平目地の地に描かれている。手前には風に倒された菊の花と釣鐘草が写実的手法で描かれ、その装飾画は蓋の裏側と硯箱の内側に続く。箱の内側にはお香入れの4つの箱が並べられており、その装飾の図柄は『源氏物語』52章を彷彿とさせる。漆の花器に生けられた葵、松と梅の枝木のなかで鳴くウグイス、秋の花々の上で音を奏でる2匹のコオロギである。  金を使った豪華さと繊細なデッサンで装飾されたこの硯箱は、18世紀初期にあったきわめて絵画的な漆器の姿を呈している。技巧的に発達したものとはいえ、そのことが清純な描写の魅力を妨げてはいない。作者は『源氏物語』に見られる郷愁を見事に表現する術を得ている。  漆は木の上に乾燥や研磨の過程を経ながら、何度も塗り重ねられる。蒔絵の技巧は漆で描かれたデッサンの上に金銀粉を蒔き、さらにその上に別の漆を塗り重ねるものである。  書や和歌は、武士や貴族の奥方たちのたしなみであった。こうして、硯箱や文箱は背の低い机ととともに揃いの調度品をなしていた。これら装飾の品々は、大都市の経済発展と繁栄とともに到来した町人と都市に住む人々による新しい文化の出現した江戸時代に広まったものである。

武蔵野(伊勢物語)

この3枚続きの錦絵は伊勢物語の一場面である。禁じられた愛がゆえに人目を避け逃げる2人。雲母(きらら)をふんだんに使用して描かれる満月に照らされ、武蔵野に茂る葦の足もとに隠れる恋人を映し出す。この場面は、国守の追手たちに見立てる5人の女性に2人が見つけられたところで、その女性たちが提灯を持って追いかける姿が他の二枚の画面に描かれる。その艶かしさ、可憐な美しさにおいて、この女性の表現は、繊細な心理的描写を表現する歌麿の様式の特徴を示すものである。歌麿は、細い体つきの、誇り高くも控えめな新しい理想の女性像を描き出している。彼はこの版画の自然の中の恋人たちの他、当時の世に名をはせた愛人たち、遊女の肖像、吉原(江戸の遊郭)で見る官能的な場面なども主題にした。  1790年代は浮世絵の発展において転換期にあたる。多色刷り版画の技術はその頂点に達し、それぞれ違う色を施した版木を、同じ用紙に連続して刷っていく技術が完成した。1765年代以降、多色で濃厚な色料を使 った木版画と模様の空刷りの技術を使い、白い用紙の上に生き生きとした情景を刷った版画が錦絵と呼ばれるようになった。  様式的に見ると、歌麿が浮世絵の巨匠と認められるようになったのは1790年頃である。彼の様式はその初期より一般大衆の心を惹き付け、その爛熟は江戸時代という時代が産み出したものであった。それはこれまでの貴族や武士、僧職者によって発達を遂げてきた日本文化に、裕福な町人文化が誕生した時期であった。

色絵三壷文皿

この柔らかなカーブを描いた皿は高台(こうだい)が高く、木盃(もくはい)と呼ばれる形をしている。この高台には櫛歯状(くしはじょう)と呼ばれる線が等間隔に描かれている。この非常にオリジナルな三個の壷は、鍋島焼独特の表現であり、優れた繊細さと、装飾性における明快な構成を示している。これらの要素は1680年頃に定まった様式上の方式にしたがったものであり、鍋島の磁器特有の美しさに磨きをかけたものである。この様式の磁器は、その深い自然感、大胆な構成、色調の選び方を錦絵から取り入れている。その製品には、色素の材質や釉薬によってさまざまな種類がある。多色の装飾のものは鍋島焼の最も洗練された様式を代表するもので、主に青、緑、黄、それとしばしば主なモチーフの花に用いられた赤などを使用したものである。  この素晴らしい形を作り上げる鍋島焼の技術には、注意深く材料を選ぶことや、各製造工程を完成させることを必要とした。酸化コバルト・ブルーによる絵付けは模様の輪郭を描くことにある。これに釉薬をかけ1350 ℃の高火度で焼いた後、その釉の上から緑や赤の顔料を使って上絵付けをし、850℃の低火度で再び焼く。  鍋島焼の形は日本の磁器のなかで最も完璧な形をしている。事実、19世紀の資料には、その製品は売買されたり、外国に輸出されたことがなく、将軍家や諸侯の用に供したものであったことが記されている。

六曲一双屏風「宇治川扇面流し」

屏風の端から端にかけて、ゆるやかな起伏の土手の間に流れる川を描いた景色。平安時代(794年-1185年)から描かれている“名所”である。水に浮かぶ車輪、漁に使う梁(やな)、銀色を帯びた川の流れから宇治川であることがわかる。川に流されてくる扇面は、次々とやってくる流れのリズムを刻んでいるようであり、その鮮やかで不透明な色彩は、酸化した銀粉によって色調のトーンを抑えた水流とコントラストを描く。詩的な構成と自由な装飾は平安時代の文学的情緒をほのめかすものである。このようなテーマの結びつきは珍しく、この屏風を特徴づけるものである。金箔地に広がる絢爛豪華さに特色がある絵画は、桃山時代から江戸時代初期にかけて見られる。  このような屏風は、日本画の形態として16世紀から多く見られるようになった。伝統的には偶数枚で構成され、部屋の間仕切りとして使われたが、そこに描かれた絵画は当時の美的真髄を示すものである。  シンプルな構図と扇面に描かれた繊細な絵とのコントラストは、江戸時代に見られる革新的な表現を告げるものであり、この作品の年代の決め手となるものである。すなわちこの様式は1620年-1640年に絶頂期を迎えた宗達の画風にすぐ続くものであるようである。この作品は懐古的であると同時に革新的なものであり、その活力ある作風によって、文学的郷愁の表現にとどまらない。作品自身のなかに17世紀と18世紀の近代性を持つものである。

瞑想達磨

 画家、白隠慧鶴は、中心人物の人となりとなるディテールやその背景となる図柄をまったく無視して、9年もの間、岩壁に向かって座禅を続けたという禅宗の開祖、達磨(菩提達磨)の瞑想の純粋な表現に成功している。シルエットの抽象化、書を思わせる力強く、すばやい筆致から感じさせる荒々しいエネルギーは、この達磨の体からばかりでなく、作者の手からも発散しているようである。「己の内面を見て、人は仏陀になる」という意味の賛もこの精神的求道者を表す肖像に呼応している。合理主義と思考の体系化を否定する臨済宗の教えを反映し、白隠の本能的で書家的な芸術は、精神における無限の自由の鍵を握っているようである。  この直観こそ、強い表現力に至ろうとする禅の水墨画の追求する課題であり、それゆえに禅の画家たちは伝統的絵画の表現方式を遠ざける傾向がある。  白隠は存命中から、その禅思想の革新者としての業績において有名であったが、特に臨済宗の思想改革でもよく知られていた。彼は江戸時代以降にまで、禅芸術の発展を決定づけた革新的な美の創始者とされている。その意味は彼が選んだ題材にあるのではなく、自由でシンプルな描線の構成に凝縮された主題の捉え方に強く現れている。これこそがこの作者の持ち味である。この壁に向かう達磨の肖像は、かれの作品に繰りかえし描かれる画題のうちのひとつであり、その様式の自然さと、その画面を飾る賛の意味において、彼の芸術が円熟に到達したことを示すものである。

普賢十羅刹女図

手を合わせて祈り、六牙の白象とともに、大飛雲上に乗って現れるこの像は、普賢菩薩(サンスクリット語:Samantabhadra)である。六牙は仏教における菩薩修行徳目の六度(六波羅蜜)を象徴している。この菩薩は実践を意味し、群青の地に、蓮華座の上に主尊として、截金(きりかね)によって描かれる光のすじを放射する金色の二重光背を負って現れる。普賢菩薩をお供する一行もまたこの絵画を特徴づけている。これは羅刹女(サンスクリット語:Rakshasi)であり、超人的な力を持つ女性たちである。彼女たちの役割は、普賢菩薩のそれに近く、法華経の信者たちを守ることにある。この絵画の下方、両角の部分にも光背を負った二天王が描かれている。  鎌倉時代の典型的様式がうかがえる作品で、ダイナミックな動き、人物の特徴やその姿態、截金で表されたきらびやかな全体的な調和にその特色がある(装飾物のすべては金泥で描かれているが、光のすじに関しては、その光をよりいきいきと見せるために、丹の朱色を下地にして截金が使われている)。その一方では、平安時代(794年-1185年)後半の様式が残ってもいる。例えば、くっきりとした線で描かれた菩薩の表情は、東京国立博物館に保存されている12世紀の普賢菩薩の顔を思わせる。羅刹女の唐装に見られるような、あざやかな色を重ねた彩色の上に、墨でその輪郭を描く手法は「色彩派」とも呼べる平安時代の第二様式の特色である。図像学的にはこれらの尊像は、平安時代の終わりの作品にあたる廬山寺の普賢菩薩の絵に近いものがある。

聖観音菩薩立像

 この像は慈悲そのものの尊格である観音菩薩である。蓮華座上に立ち、左手には仏教において清らかさを象徴する蓮華の花を一輪持っている。この尊像は日本ではとりわけ平安時代後半に信仰された観音菩薩の初期の像容をしている。この像の特徴から、この像は阿弥陀三尊の脇侍であり、西方浄土の主である阿弥陀仏を中尊として、知恵を象徴する勢至(せいし)菩薩と対をなす一体であったことがわかる。様式の点から見ると、この作品は当時の藤原摂政がつくらせた最高級の作品に近いものである。定朝(じょうちょう)派の影響のもと、観音菩薩はその完璧な姿と肉感的な造形からして、当時の作例のなかでも古典作品である。1124年に建立された中尊寺の金色堂の祭壇におかれた諸尊像の軽快な腰回りと柔らかい表情が非常に似ており、この観音菩薩が12世紀初期の作品ではないかと推定される。 この時代は木造彫刻の発展期にあたる。それまでの一木造りから、寄木の技法を使った寄木造りが確立した。さらにその表面を彩色したり、金箔を貼る技術も使われ始めた。  この観音菩薩像は日本における仏教、なかでも浄土宗の発展を裏付けるものである。10世紀には「阿弥陀三尊来迎像」として、彫刻や絵画にも表されるようになるが、これは11世紀から12世紀の平安京の宮廷における仏教信仰の特色を物語るものでもある。

埴輪(はにわ)

 冠りものを戴き、衣装を身に付けた兵士の姿。その平然とした表情をなす目と口は、粘土にごく簡単に開けられた穴である。大きく膨らんで、膝丈でしぼったズボンと篭手を付け、ベルトには短刀を通している。これら装身具から推測できるのは、おそらくこの像は高貴な武人であり、その様式から関東北部に出土したことがわかる。この円筒の上に乗った像は「円筒埴輪」と呼ばれ、葬送用のものであり、写実的に作られた男性像、巫女、動物、または楯や家、供物用の杯、あるいはたんに円筒状の形のものなどが一緒に並べられている。容貌や衣装などにさまざまな違いが見られ、これは当時すでに社会階級が確立していたことを物語っている。

哈薩克貢馬圖

這幅畫描述西部民族的哈薩克人向乾隆獻貢馬,表示效忠滿清王朝。皇帝鎮靜的面孔,線條精確微妙。乾隆坐在屏風前的平臺上,四周圍著有限的幾個人。構圖與其說是東亞不如說是歐洲繪畫傳統。畫卷顯然不是依次分段鋪開,而是整體展現,以求真切的視覺效果。同樣地,馬匹也按西方現實主義手法描畫,郎世寧在這方面實為高手,顯得空曠的環境,烘托出俊馬是如此強壯。馬身立體描繪分外出色,色彩層次過渡令人毫無察覺。 畫中的景物,岩石,樹木,青苔,水墨線條犀利,著色錯落,無疑是國畫的表達方式。人物面部用細膩對比筆法描畫,顯示出稜光效果。這種西方常見的技巧,此處用在帶雲母粒的長纖維紙上,效果異常鮮明。 耶穌會傳教士知道中國人的敵意,他們尋求傳播其宗教信仰,但不強迫接受西方文化,試圖適應所在國的習俗。郎世寧就是如此,他吸收國畫的技巧,在中西繪畫之間遵循中庸的原則。郎世寧作為得天時地利的觀察家和有綜合能力的人,成功地描繪了滿清王朝的奧祕,將那裡的計謀,屈從,統治用溫和的人情表現出來。吉美博物館的這幅長卷,是乾隆皇帝所寵愛的那種藝術珍貴的見證之一。 如想進一步了解,請查閱中國藝術目錄。

前赤壁賦(書法)

這件作品為一次友會時即興而書,附有長跋。作品屬於北宋傑出的書法傳統,沈周幾乎將其視為唯一參考的典範。他尤其推崇詩人,書法家,評論家黃庭堅(1045-1105年)。黃庭堅是寫“前赤壁賦”的大詩人蘇東坡(1031-1101)的好友。蘇東坡把宋代當時出土古文物當成靈感的源泉,看作為簡樸,有表現力,充滿生氣的典範。而對這種典範的回應,給黃庭堅的書法增強了創造能力,使其也成為傳統中的一員。 喜愛古風的情趣出現於宋末,將中國古老的過去看成現世希望的楷範。沈周的這幅長卷行書,與楷書接近,清晰,高雅,充滿生機。盡情抒發“心印”,這種自我個性的表現,特别為宋及明代大師所追尋。 沈周詩,書,畫無所不能,是吳派山水的大師,而明代一些最重要的文人畫家正是從吳門脫潁而出。作為完美的文人,沈周遠離官場,一生未仕。他屬於十五世紀後半期,那是一個向宋代及更早的傳統價值尋根的時代。 如想進一步了解,請查閱中國藝術目錄。

敬亭秋色

這幅畫忠實於中國傳統散點透視方法,分層構畫石峰密林景色,中部一瀑布投入一溪水,在秀木簇葉掩映之中,一人立於亭邊,欣賞山光水色。在跋文中,作者詳敘創作緣由,其中一句為:“睹倪,黃,石,董真跡,日過形隨,又覺數日寢食有味。” 畫家透過矯捷緊張的筆觸,將白雲繞深山的景象製造出奇特的氣氛。此畫秉承中國造化自然的審美觀,衡量的角度不是畫出何物,而是如何揮毫運筆,顯出簡樸的價值。 此畫運用水墨技巧,實處濃墨渾厚,虛處筆觸散淡秀潤。 石濤是明代皇室後裔,原姓朱,名若極,是眾多文人畫家中的一個楷模。以法名道濟(元濟)和石濤之名為人所知,他以山水畫家出名,也精於園林 , 詩詞,書法,哲學,畫論 , 皆有成就。中國山水一般未經改造,驚心動魄的原始風貌,神奇迷人,石濤妙得其靈。 如想進一步了解,請查閱中國藝術目錄。